聞いてない 誰もそこまで 聞いてない

先日発表された「おたく川柳」の第1位はこれだった。

自分はてっきり、「聞いてない」は、事前に根回しされなかった事を後で知らされた人の反応というふうに受け取って、どこが面白いのか分からなかった。

ちょっと頭をひねってみたら、分かった。おたくな人と「会話」している時の、どこまで相手のペースにつきあうべきか考えながら「そうだねえ」とあいづちを打っている時。かたや、この話題をどこまで続けるか、それとも話題を変えようか考えているうちに「そういえば」と向こうの方から話題を変えられてしまった時のあの感じ。自分もおたくだから分かります。というか、自分も聞かれてないことまで好き放題に話していたり、ということをごく自然にやっている口だから、きっとこの川柳の意味が分からなかったのだ。

ところで先日娘と、公開されたばかりの映画「プリキュアオールスターズDX みんなともだちっ☆奇跡の全員大集合」を観に行った。

昔、自分が子供の頃見たヒーローもので見た悪役は、一言で言えば「侵略者」だった。ところで、プリキュアの世界観の中での悪役は、ウザイとかコワイとか、負の感情の権化であるらしい。そして、シリーズの総集編のようなこの映画ではそれらの元締め的存在として、ファシストか全体主義者のようなものが出てきた。それが、プリキュアが個性を持っていることを批難し、「私の中で一つになるのだ」と誘いかけ、プリキュアを死の苦しみに誘い込もうとする。悪役は戦術的にプリキュアより圧倒的に優位に立つのだが、「みんな違って個性があるから、一つになれる」「一つになるって、あなたの言うそんな事じゃない!」と論破されて最後に砕け散ってしまう。

先日、オバマ大統領が就任演説で「融和」という言葉を使って支持を得たが、融和の力が勝つという話だったように理解した。

さて、そんなテーマをさりげなく娘に理解させようと試みた。まずジャブから、
「プリキュアってたくさんいたんだね」
このあたりまでは何となくヒットした。
「よく応援したね、おかげでプリキュア勝てたよね」
力なくうなづく娘。
「もしかしたらプリキュアにあえるかもね。同じ空の下にいるからね」

「…ていうかあれ映画。」

さすがは6歳だ。この前までサンタクロースを信じていたのに、YouTubeのヘンな動画を見せたのがいけなかったのか…しかし、無理矢理ファンタジーの方に連れ戻そうとする。
「でもさ、○○が応援しなかったらプリキュア勝てなかったと思うよ。だってもう力なくなってたじゃん。それからプリキュアはさ、ダンスが好きだったり、たこ焼き好きだったり、みんな違うけど、だから一つになれたんだよ。一つになるってことはみんな同じになるんじゃないんだよ…」

「それ嘘!」

あ痛・・・やっぱり抽象的に言ってもだめだ、というか話が上滑りする。

娘の好きな事、幼稚園の友達の好きな事、娘にない特技を持っている友達のこと、そんなことを聞き出そうとしながら、クラス楽しかった?と水を向けてみる。
保育参観で見た限りでは、特定の親友との交流が全てで、クラスはあまり楽しくなさそうだったのだが。案の定、無反応。現実は甘くない。

そんな空気を載せて、車はどんどん家に近づいていく。

ていうか娘カワイソス。

嘘というのは、ファンタジーを理解したつもりの父親の嘘か、子供なりに感じ受け取ったストーリーと違うという意味か、それとも宙に浮いたお説教か。たぶんどれも当たっている。

ベタなもの指向と「農」の復権

ヤンキー/おたく文化論については、こちらのブログでの考察が参考になりました。

ここで参照されている「ベタ」なものについて。

最近、渋谷で「ギャル米」つまり、「食」の問題をギャルが主体になって取り組もうという運動を立ち上げた藤田志穂さんの試みが話題になりました。

自分は、おととし・去年とベランダで野菜を育てたのですが、健康に育った野菜は実においしいのです。

「おいしさ」にはいろいろあるけれども、自分のいのちが別のいのちによって育まれている、そういうことを実感できる「おいしさ」に帰ること。そこで得た感覚が「食」の問題を解くための羅針盤になるのではないか。

ちょうど、自然に対する原体験を持たない「環境」運動が根無し草のようであるかのごとくに。

こういった感じでいつも自分の言葉は確かさを求めて空回りするのですが、「自分捜し」にも「差異化」とも無縁な「おじいちゃんの畑」。とってもいいと思います。

というようなことを考えていたら…

メンバーからメールが届いていた。

「ジンジャーベイカーやコージーパウエルのような大きなリズムを求めています」

むむむ。そっちの方向は狙ってなかったぞ。

一平面をいくら鋭く切れるように磨いても、別の平面は切れないのです。

けど、3面もあれば、とりあえず空間は8分割できるのです。

それでいこう。

刃先の上の身体感覚

ひさびさに包丁を研いだ。

ちょうど航空機の翼をかすめた空気が翼から離れるときの角度を狙う。

そのとき包丁の刃にばねのような弾力が生じる。

力を加えない位置の刃の厚みは限りなくゼロに近く、

弾力を伴うしなりに応じて刃の形が付いてくる。

という感じ。

投げ入れた力に応じた形の変化が、まるで波が砂浜を洗うようで、

とてつもなく精密な造形をしている感じがして気持ちがよい。

ちょっと危険な香りがする。

次の日、これまたひさびさに、ドラムセットの前に座って4人で練習。

刃を研いだときの感覚を重ねると、

音符のエッジにスティックとヘッドのしなりを添わせて、

精密な音の造形をしているようだ。

あまり凝りすぎると疲れてうまくいかないけど、

これに節度を伴わせるとかなりいい感じかも知れない。


次回の練習予定を決めよう。

ヤンキーの定義

ケンプラッツの五十嵐太郎氏の記事でヤンキー論が沸騰しているのを読みました

巷においてヤンキー論が語られ出した背景には、速水健郎「ケータイ小説的。」で指摘された、以下のようなことがあるだろうと思います。

・ケータイ小説というカテゴリに属する文学の消費分布が、これまでの文学書のように大都市中心でなく、地方においても広く分布している。
・有名なケータイ小説で用いられるモチーフが、「ティーンズロード」などのいわゆる”ヤンキー雑誌”の読者投稿欄と共通点を持っていた。
・90年代以降の「大きな物語の喪失」にともない、「上京」を前提としたサクセスストーリーが力を失い、郊外を舞台とした「地元つながり」を重視した生き方が浮き彫りになった。
・ケータイの普及により、顔の見える間柄の紐帯を強めるツールとしての役割をケータイが担うようになった。

要するに、これまで東京のメディアによって担われていた公共圏にかわり、ケータイというメディアを通じた公共圏と私圏の中間にある”準”公共圏のようなものが生まれ、ケータイ小説によって可視化されるようになった。

この”準”公共圏によって担われる「ヤンキー文化」は、各地方ごとに無数に存在するとなれば、多様な形態を持ち得て良いのではないかと思います。

「おたく」文化が、アニメ、パソコン、鉄道、といったマスメディアによる媒介によって一定の形を与えられてきたのと対照的に、ヤンキー文化はそれら以外、それらを補完する形で分布するので、「ジャージにつっかけ」といった形態によってでなく、一つの概念、多様性として捉えられる必要があるのではないか、と思うのでした。

仮想空間の中の身体性

6歳になる娘が、サンリオのオンラインゲームにはまっていた。
どうもはまりすぎで、毎日30分はやっているらしい。
いつも描いている絵が、ゲームの画面になっている。
ちょっと心配になった。

ところが、パソコンはうまくできたもので、うちの娘のレベルではまだ対処できないトラブルが時々起こる。

「動かないよー」と言われて、「まだ直んないんだよ、ごめんねー」と引き延ばし、休みの日にようやく重い腰を上げて対処する。

サンリオのオンラインゲームは、大人の目線で見て、けっこうよく出来ている。

特にBGM、繰り返しのパターンながら、中毒症状を起こしそうになることもない。親も、マウスと格闘している子供を見ながら、結構そのかわいらしいBGMを楽しんでいる。

対処し終えたところで、数週間ぶりでゲームが立ち上がった。

ところが…

遊んでいたのは育て系のゲームなのだが、キャラクターが死んでいた。

キャラクターが病気になっていても、体力を回復させるよりも別のことをさせて酷使していたくらいだから、数週間放置しておいたことで命がつきてしまったらしい。

死ぬといっても、これほどまで演出が凝っているとは思わなかった。
まばゆい後光がさし、それが広がる中、だんだんと影が薄れていく。
その間役十数秒。

「どーするのっ?」
「・・・」

きっと、キャラクターが簡単に死んだりするゲームの世界に慣れないようにということで、ゲームの中でも死をおごそかに演出するようになったのだろう。

いやー、こんな形で死をはじめて体験させてしまう結果になるとは。

娘がどこまでキャラクターに感情移入していたか分からないが、これを死として認識しただろうかという疑問は残る。

しかし、親としてつぐない(?)の意味をこめて、「ほら、キャラペットここから入れるよ」と促しても、別のゲームに関心を移したらしく、やろうとはしなかった。

a-nation'08で生あゆを遠くから眺めてきた

友人からチケットをもらったので、時間の関係で最後の方だけ見てきました。ちょっともったいなや。

ケータイ小説について考えていたので、浜崎あゆみのライブを(初めて)観れたのは大きかった。

ライブを観に行ったのにはいろいろな理由があって、音楽を楽しみたいのはもちろん、数万人規模のライブでは「どういうことがおこっているのか」を知りたいというとても不純な動機も。

自分はふだんライブに行かないのだけど(だってCDの方が音がいいし)、ライブに行きたい人の気持ちも分からないではない。ライブとは「集会」であって、自分と同じ何かを共有する人の存在感を確かめたいというのがあると思う。

その「共有する何か」とは何でも良いわけではなくて、目印である「アイコン」としての資格がなければならない。

浜崎あゆみは、時代の空気を音楽という形にして発信してみせる歌い手であることはライブを観て確認できた。自分はかろうじて知っている曲はあるものの、会場の音響の関係で聞き取りにくい歌詞のサビを一緒にそらんじて歌えたりするほど浜崎あゆみの世界に通じているわけではない、というか正直あゆはずっと好きではなかったけれど。そういう意味で、彼女がアイコンたる資格十分なのは感じられた。

「ケータイ小説的。」によると、とあるメジャーなケータイ小説のストーリーの語り口は浜崎あゆみのそれをバックグランドにしているという。

ジャーナリストの佐々木俊尚氏は、自身のメルマガの中で、ケータイ小説を通じて読者がつながりあいを実現している仕組みをこう分析している。

読者である彼女たちにとっては、ケータイ小説作家は「多くの人たち」「同じような境遇の人たち」のアイコンとして存在しているのではないか。彼女たちは、ケータイ小説家というアイコンを経由することによって、社会や他者と間接的につながるというシステムを作り上げているのではないか、ということです。

ここで言われている「同じような境遇の人たち」とは、「ケータイ小説的。」によればAC的な「コミュニケーションの檻」の中で困難を感じながら生きる人たちである。もっとも上の分析において重要なのは、間接的に社会や他者という「公共圏」とつながり得るかどうかという論点だけれど、今はそこはあえて関知しません。

浜崎あゆみのライブの中では、演劇的パフォーマンスがいくつか見られたが、大道具を使いながら、互いに相手の存在を求めながら、存在している平面が違うために永遠につながりあえない、というモチーフのものがあった。つながりあうための障壁としての第三者は一切登場しない。ネタバレになりそうなので詳しくは書けないけれど、惹きつけられた。つながりあうことの困難さがここまで内面化されてしまったのが今という時代なのだろうか。

最後にあがった花火だが、タイタニック号の海難現場で救助信号としてあげられた花火を連想してしまった。孤独でも、一緒だから、怖くない、という感じ。