「崖の上のポニョ」
子供と見に行くつもりでいたが、フライイングして一人でレイトショーにて。
公開から1か月経ち、ネットでの評価を見ていたことから、これまでの宮崎駿作品との世界観の違いを覚悟していく。
「ポニョ」のリアリティー
シュールレアリスムという評価があったが、絵本の中のストーリーとして受け止めるなら、全然ありだとタイトルテーマを見ながら思う。絵そのものが描き込まれているわけではなく、色鉛筆の線が見えるような世界で、逆に現実的しがらみに拘束されずに想像力にまかせて観ていればいいのだなと感じる。
むしろ、5歳くらいの幼児にとってのリアリティーとは、大きな波の中に怪獣の目のようなものを見たり、動物と会話したりといったアニミズムに近いものだとすれば、こういう世界の方にリアルを感じるのかもしれない。
この作品の中で描かれている「海」に接して、子供の頃読んだ、「うみのがくたい」という絵本を思い出した。また、昭和初期の文学者、内田百間の幻想的な短編にも、海がせり上ってくるような作品があった。さらには、星新一選だったか、アマチュアによるショートショート作品集の中にあった、海が玄関先まで広がってくる出来事を中心に描かれた短編。また、芥川龍之介の作品中で、池の中の魚の背びれが水面をゆらしているさまから「閾域下の我」を連想する場面。もっと個人的には、嵐が過ぎ去った後の風に交る潮の香りにふっと海の上の大気を思い出すように感じることや、子供の頃に夜の高速を走る車の窓から目にした、月明かりに激しく上下する海の水面など、映画を見ながら感じた記憶を挙げだすときりがない。
自分は専門家ではないから勝手なことは言えないけれど、無意識という「あちら側」にリアリティーを持つ話であって、意識的な世界とはリアリティの基準が違うにすぎないのではないか。
込められたメッセージとは
それから、映画の中でポニョが「変態」するのだが、個体発生は系統発生をくりかえす、という三木成夫「胎児の世界―人類の生命記憶」に出てくるテーゼを思い出した。
身体的な感覚は無意識の方に属する。フジモトが嫌悪していた人間の汚れとは、人間が身体的な感覚を無視して意識優位のもとで作り上げた世界(養老孟司的な)をさしていたと仮定すると、相変わらず海がせりあがった状態のまま、宗介がポニョを「半魚人」であることを認めた上で伴侶とすることを受け入れたことを受けてグランマンマーレが最後に宣言した「世界のほころびは閉じられました」とは、身体的感覚が意識の方に浸透する形で和解したことを意味するのだろうか。
何となく60年代っぽい古臭い感覚の中で言い切ってしまうようで気が引けるのだけど、ナウシカ以来、人間と自然との対立という問題を扱ってきた宮崎駿の作品の中では、「ポニョ」は生命というものの成り立ちから物事を発想しようとしているという点で最もラジカルな作品なのかもしれない。